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英国の家

イギリスの家を買うことを検討しいろんな広告を見る。Vの実家が売られて、家族仲がよいVが、英国で滞在する家があるといいということと、イギリスの不動産市況は日本とまったく違うようなので、投資も考慮している。広告を見てると以前教会だったのが、信心深い人が減って教会を廃止し、かわりにアパートに改装した家とかもある。ネット広告の写真をクリックしたものの、写真の内装は教会のおもかげなんかが何もみつからなかった。

おもしろいのは、広告にほとんど築年数が書いていないこと。たまに書いてあっても小さく目立たない。築年数はあんまり気にされていないらしい。かわりにリフォームが何年にされたとか、正確な年でなくても「最近」と冒頭のほうに書かれていることが多い。

広告として目立つように書かれていた過去の例で覚えているのは、行政で保存レベルを指定されたたぶん築200年以上の家だったように思う。Vの家族から聞いたのでは、何かリフォームするときにきまりがあって特定のやりかたでしかできないため、予想外にお金がかかるかもしれないそう。かけるお金が限られる一般人は、そういう家は避けたほうがいいらしい。

古いと安いという法則はこの国ではなくて、どちらかというと逆。でもきちんとリフォームしてない家はどんなに古くても、当然その分は安く値付けされるらしくVの上のお姉さん夫婦の家はリフォームされてなくてほとんどスケルトン状態を安く買ったと聞いた。夫婦でお金がない時代のDIYから始めて毎年毎年、何十年もかけてリフォームしつづけ、リフォームが終わって初めてほかのことにお金をかけられるようになったそう。手をかけているので家がわが子のような感覚で、つい昨日までも地下倉庫のペンキ塗りを2人でやっていた。

イギリスの作家だと、家が印象的な物語が多い。例外なくとても古く、やっぱり築何百年という家で門から家の入り口まで歩いて30分くらいかかるほどの荘園にある。家にはたいてい、主人以上に長く家にとどまって誰よりも家のことを知って万端とりしきる執事や家事を管理する女中頭がいる。

飛行機の中で読むようジェーンオースティンを持ってきたところ、そういう家の主人は広い地所を所有し小作人を使って収穫した農産物などで収入を得ていた。執事が主人に気に入られると、執事の息子がオックスフォード(日本でいうと東大)に入れてもらったりしてしていたらしい。そして女中頭は日本の会社のお局さんが、若くして社長になった二代目よりいぱってるみたいに、若い主人以上にいばっていたり以前の主人を崇拝していたりする。「日の名残り」という物語では、執事なのに、家の外で間違われたまま主人のふりをする執事と、新参の女中頭の恋が描かれていたな。

Vの2人のお姉さんの家は築150年くらいだとしてもたぶん格別古いというほどではない。今私が居候させてもらってるVの下のお姉さんの家は、近くに海があって大帝国時代ふうリゾートホテルがある。昔読んだ記事でこういうリゾート地には貴族が別宅を持つことが多かったと書いてあった。もしかするとそのホテルも貴族の別宅を改装したもので、この家はそこから100mくらいしか離れてないので貴族の別宅の召使が住んでいたのでは?まああくまでもこれは想像だけれど、詳しい歴史は調べればわかるかもしれない。

そのホテルの表玄関は海に面して、ラウンジでは広々とした水平線と空白のような空が、視界を圧倒する。海と反対側はパブになっていて、近いのでお姉さん夫婦とわれわれ夫婦4人で木金土日と週4日は行っている。お姉さん夫婦はわれわれがいなくてもたぶんその頻度で行ってる。
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by nanaoyoshino | 2012-02-28 10:55 | hundreds of days off

さよなら

今日お父さんが他界したそうだ。そうだ、と書いたのはどうも信じられないから。なぜなら他界した、と医者が言った後もお父さんの身体はずっと暖かで、足だって動かしているように見えたから。でも脈をはかっても脈はないようだったし、息していることも確かめられなかった。足はベッドが動くから動いているように見えるだけだと看護婦に言われた。もしそうならあんなにも死んでいても生きているように見える人って今まで見たことがないような気がする。そしてもしほんとうに今お父さんが死んでしまったとしたら、あまりになめらかにお父さんは生死の境を超えてしまったからだろうか、誰も息が引いていったことには気づかなかった。私はこれまで苦しんで死んだ人ばかり見て来たので、死は生の終わりでしかないように感じて来た。でも今では生と死はつながっていてひとつとも言えるんだなと思う。

長いことVの家族は「理想の家族」だと信じて来たけど、震災があった頃から身の回りに変化が起こり、自分のブログはフェアリーテール、架空の話を描いていると感じるようになって昨日も書いたように書く気がなくなってた。

朝早くB(Vの上のお姉さん)から電話をもらってお医者さんがもう危ないって言ってるからすぐにも病院に来るように、とのことだった。でも今いるJ(Vの下のお姉さん)の家からお父さんの病院は遠く、電車とバスを乗り継いで2時間もかかる。Jの職場は比較的近く彼女の自動車でなら30分くらいで着くのでJと一緒に行けないのっって聞いたら、出張だと言う。出張ってお父さんが危篤なのに、と言ったらそんなこと知らない、と怒鳴ったのでその話はもうせずに、Bの夫婦のどちらかが駅までせめて迎えに来てくれたらとVに言ったけどそういう話はなさそうだった。

もう引退後のB夫婦はお父さんが入院するたび、毎日病院に来て私たちが行かなかった数日も電話して状況を報告してくれていた。ちょっと前にはBのだんなさんが、ベッドで動けないお父さんのひげをていねいに剃ってあげていた。それがあんまり介護士みたいに手慣れた感じで。お父さんがビールが飲みたいというたびにビールを買いにいって、ストローで飲ませてあげていた。

Bは自分が来れないときは来てお父さんの食事を介護するようにとBに指示したりする。病院で職員が食べさせてくれるのにいちいち自分が必ず来たり、仕事に忙しいJにそんなこと指示するのが不思議。お父さんの老人ホームは全介護つきなのだけどBは週2回は行って何かと世話をしてきたし、よくBは介護の苦労を日頃から口にする。

昼ころ着いたらお父さんは眠っているようで、肺炎だからもともと荒い呼吸も安定していた。半開きの目は右目が大きめに開いていてそこからのぞいている瞳が死んだ魚みたいに白く濁ってた。B夫婦が食堂でお昼を食べている間、お父さんに○○だよ、と自分の名を告げたら両方の目が同じようにいきいきと開いて、何を見ているのか瞳も本来の青みを帯びて輝いたのでVを呼んだ。
「ねえお父さん目を覚ましたみたい」
Vも自分の名をお父さんに伝えたので「お父さん、わかったみたい?」と聞いたら、話はできないけど僕だってわかってるよ、とうれしそうだった。

そのうちにお父さんの息がとぎれとぎれになってきた。Vは食堂にBを呼びに行き、「心配ない」とだけ言われて帰って来た。私は「ねえお父さん息してる?」とVに何度も言わないといけないほど息がかすかになってきたので近くを通った黒人の看護婦さんに伝え、看護婦さんがお医者を呼んで来た。学生かというほど若い医者に抗菌剤はすべて試したんですかと言うと、副作用があるから何でも試せる訳ではないと言う。

「あら、ついに?」病室に戻って来たBは、お父さんを見てもう亡くなったと勘違いしたらしい。私はさっきの看護婦がまた通ったので、息してますか、酸素マスクとかしたらどうでしょうと声をかけるとお医者が来て、酸素は鼻からもうずっと補給していますよとか、もうあとわずかでしょうから離れないでくださいとか言った。

ちょうどそのときJが出張からかけつけ、数分で私にはお父さんの息が確かめられなくなった。でもVはまだ大丈夫息してるよと言い続けた。私は最初はそうなの、と言ったけどどうしてわかるのと聞くと3回目くらいには僕も自信がないと言い出した。Vの家族にも聞いたけど、もう誰もお父さんが息をしているかどうか、関心があまりなさそうで、わからないと言った。そこでまた看護婦さんを呼んだら医者が来て「アイムソーリー」と言った。Vの顔が動揺でさっと紅潮した。


Bは病院を去るとき、彼は老人ホームでも病院でも、ぜんぜん文句を言わなかった、全部受け入れアクセプトしたからみんな彼が好きだったと言った。私もVにお父さんは立派に運命をアクセプトしているようで、誇らしいと昨日パブで言ったのでそれが伝わったのかなとも思ったけど、VとBは直接話す機会もあまりないので、たぶんB自身の感想だろう。アクセプトというなんとなく東洋的な感じのする語をこういう事例に使うのか、ずっと前から疑問に思っていたがやはり使うんだな。

でもこの家族はVも含め病院からどんな悲観的なことを言われようと疑問にも思わず受け入れ、私がいちいち看護婦や医者に確かめたがるのが変に思われそうなほどだった。昨日パブ行く前にJのパートナーが、炭坑労働者だった自分の父親のことを、一度炭坑に入ったらいつ次食べられるかわからずずっとお腹をすかせていたから、とにかく食事のときはお腹いっぱい食べることが何よりたいせつだったと言ってた。たいていの苦労を受け入れざるをなかったのが、この階級(労働者階級、といってもこの国のほとんどがこの階級)歴史なのかもしれない。

病院から戻ったらVのお姉さんは家にいるのはたまらないから、近くのイタリアレストランに行く、あなたたちもよかったらおいでと言った。隣の席では10人くらいがやってきて、長い足の若い女性が、真っ白い身体にぴったりのミニのノースリーブワンピースをこの寒いのに着て目立っていたが、彼女の誕生日らしかった。イタリア人シェフがケーキを運んで来た。私たちはお父さんの思い出を話して、お父さんの好きだったウィスキーを飲んで笑って、隣人の誕生日をいっしょに拍手して祝った。それから近くの誰もいない海岸にVと2人で行き、私は波が轟く真っ暗な海を前に、ほとんど誰にも気づかれずに泣いた。
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by nanaoyoshino | 2012-02-24 09:57 | hundreds of days off

ブログをまた書くことにした

ブログでは、希望どおりにならないこともわからないことも、そのまま書きたいような気がするのだ。

一週間前成田からヒースロー空港に到着したばかりのとき、だんなのLが彼の上のお姉さんであるBから電話をもらった。Lのお父さんが意識不明ですぐにも会いに来いと言う。
病院は4人部屋で、ベッドのまわりに祖末なカーテンがかかっていて、お父さんは意識は回復していたけど、声もかすれてほとんど聞こえないくらい衰弱はしていた。
「日本の病院とあんまりにも同じでびっくりした」
そう言ったらなぜかほほえんだから、私のことは認識したのだろう。この国では男の子が女の子にプレゼントを渡すのをもちろん知っているが、
「あさってバレンタインデーだよ、日本では女の子から男の子にチョコレートを渡すんだよ」と言うとお父さんは、また弱々しくほほえんだ。

15年前のバレンタインデー、無記名がバレンタインデーでのこの国のしきたりだと私は知らなかったけど彼の筆跡はわかった。

昨日はJの車で、ダラムにある病院に行く途中、海岸に近い丘の上の幹線道路から、下のほうの谷間に、赤と黄色の小さな4両電車が走るのが見えた。薄汚れた電車が横揺れしながら走りすぎる頃、それが私がこの町に留学していた頃から今にいたるまで乗っている電車だときがついた。

今日2人で病院から帰るとき、ターミナル駅で、その赤と黄色の電車を待ってた。15年前と同じブザーの音で電車のドアが開くと、電車の床は砂だらけ。
「なんでこんなに汚れているの」と言ったものの、そういえば日本から着いたばっかりでそう思うだけで、この電車いつもこんなだったかも、とも思う。
「私たちまだいっしょだねえ、あの頃から15年」と私。
「長くてうんざり?てか」

ダラム県のLの実家はお父さんが老人ホームに行ってから家族が売りに出していたところ、1年くらいかかって売れてしまったのが去年の夏前のこと。
「介護関連の仕事をしている友達が、老人ホームに移ったあとの家を売るのを急がない方がいいと言ってたこと覚えてる?」と私。
「覚えてない」
「友達は、ホームに移ってから自宅が売られたあと老人は生き甲斐をなくすのか、長くは生きられないというようなことを言っていたじゃない」

パブでビールを飲んだ後で酔っぱらってたこともあり、Lと2人きりになったとき、ちょっとLの家族を責める口調になった。とはいえ私も英国では家を売ったお金を老人ホームの介護費にあてたるんだとかと聞いてからはむげに反対もしなかった。でも売れた後Lのお姉さんに聞いたら、介護費にあてたのではなく家の維持費がかかるので売りたかっただけだそうだ。

バレンタインデーの前は、英国のテレビドラマでは夫が妻に花束を挙げたり、新聞ではセレブの男女の写真にハートマークつけていたり。私たちは何も祝わなかったけど。

今日お父さんとコミュニュケーションができたのはわずか3分ほどで、それ以外はほとんど意識がなかった。病院に行くたび、お父さんのいる病室につくまでの、味気ない駐車場と廊下を歩きながら今日はどんな様子かと話しながら歩く、その時間がやけに長く思える。
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by nanaoyoshino | 2012-02-23 10:03 | hundreds of days off