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過激?軽すぎ?

「公共広告機構」とかの公共広告って、帽子かぶった幼稚園の子供がにっこり笑って、「ゴミのポイ捨てはやめましょう」みたいなイメージですが、この「人身売買をやめましょう」の広告は、まあ、海外の公共広告一般に過激が普通ということをさしおいても、過激な方だと思う。

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ここに挙げた写真みたいな、なんと言ったらいいか、熱くない過激さが好きだ。これは、ビジュアル表現だからできるのかな?海外公共広告だからできるのかな?(日本では過激な広告はクレーム対象になるとか)

今私が他の方たちといっしょに作っている公共広告は、過激でショッキングな事実をクローズアップする、という海外の手法とまったく違って、日本人向けに「カワイイ」アプローチになった。日本の若い層には、拷問や虐殺などはつまるところあまり「関心もたれない」と考えたからでもある。

Vに見せて感想を聞いたら、シリアスな事実をこんな軽くするなんて、まるで理解できないと、言われてしまった。(できたらアップします!もうすぐです!)

(人身売買=Human trafficking 「traffick」は交通・売買・運輸 http://www.advertolog.com/amnesty-international-promotion-against-human-trafficking/print-outdoor/woman-in-a-suitcase-340830/)
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by nanaoyoshino | 2010-05-31 22:43 | hundreds of days off

無名ですが、有名です。

私がお手伝いしているNGOは、海外ではたくさん広告を作っている気配だ。

気配というのは、いわゆる「広告賞」でこの団体の広告がしょっちゅうとりあげられていて、海外の広告賞に関心がある人には名前だけは知られているのだけど、じっさいの広告を私自身が見たのはイギリスで1回限りだから。

欧米では、ふだんモラル的にはちょっと怪しい大企業の広告などを作って多額の広告収入を得ている広告会社が、罪滅ぼしの意味もあってか、ほとんど無償でこのような公共利益のための団体の広告を作ったりするらしい。

それが実際にどの程度世間に流通しているのかは不明。制作されただけで流通はほとんどされないこともあるかもしれない。(制作以上に流通にお金がかかるから)

このNGOはでも日本ではあまり何やってるのか知られてない。とにかく本部(海外)からわりふられた予算が低く広告費がないいためか広告が少なく、(私は日本で一度も見たことない)結果知られていないということもあると思う。

とはいってもボランティアでの広告展(美術展のように作品をギャラリーに展示するもの)については、日本の国旗を作ったといわれるグラフィックデザイナーとか、広告クリエイターの中でもとくに名の知られている人たちがこのNGOのためのポスター展みたいなものを過去にやったりしてる。

今回私が関わっている広告についてこの団体内の担当者は、驚くほど熱意があって、おかげで私が関わっている広告は格段に密度が濃いものになった。組織内担当者が熱心かどうかは、ものすごく重要で結果の良し悪しもこれにかかってくることが、自分が外部になって初めてわかった。この仕事も基本は、協力関係なんだってあらためて思うし、それが楽しい。

でもいっぽうでNGOとしても珍しいほどボランティアが主体の団体なので、
ボランティアがあたりまえに思えるようなところもあるのか、また団体内の組織構成が柔軟すぎてモノが言いやすいのか、この方以外の方からの要望なのかよくわからないが次から次への修正と、苦労が多い。

今後公共広告に関わると、経験が限られているため広告効果はもともと信じていないか、予算をきりつめることを何より優先する担当者(きりつめること自体は正しいけど)などにふりまわされ、報酬もゼロでハードな仕事が予想される。*

もしかすると、ギャラなし苦労多しで、賞くらいもらえないとNGO広告なんてやらないというので、公共広告に賞がもらえるのかもね。



*おそらくこのジャンルでは先を行っている欧米で、公共広告を得意とするクリエイティブエージェンシーはどうやって財政安定や対処をしているのか、もし知ってる人がいたら教えてください。
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by nanaoyoshino | 2010-05-30 00:13 | hundreds of days off

エラソーですね、やっぱり。

前回自分で書いたのを見て、ほんとエラソー、と思ってしまった!

結局こういうこと(=社会的活動=social activity。英語だと「うんこしてる」「おしっこしてる」もactivityだけど日本語の「活動」はなぜかエラソーだ)
をしているとどうしても自己満足を感じているところがあるのかなー。

その意味では偽善的といわれて、それが真実をついているのかとも思う。

ま、でも何もしないのも辛いのでしている。

人生って無駄とわかってても、何かして生きる。そんなもんだと思う。

むかーし読んだ川端康成の小説に(いきなりですが)何度も書いてあったような(うろおぼえ)人生は徒労なのだと。

エラソーついでに書くと、まあこの団体の広告作る上で、広告作りは好きなのでいろんな資料を読み込んでいる。

NGOなので困っている人を救う、というのがスローガンなのは他のNGOとだいたい同じで、まあこのNGOの広告に書いてある世界の状況を読めば読むほど、つらくて仕方ない。
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by nanaoyoshino | 2010-05-27 02:31 | hundreds of days off

3秒0円で世界を変えるシステム

ボランティアで長年関わってきたNGOの広告を、最近作っている。

こういうことをしていると
「何か裏があって儲けてるんじゃないの」
「偽善的で怪しい」
などと、根拠のない批判のような意見を第三者から聞く。

そりゃ、「人のため!」って四六時中思ってるわけじゃないですよ。
むしろ自分のためかもしれないし、区別が難しい・・・正直なところ。

でも自分がしないからってさ、「そういう人もいるのね!」とは思わないのかしら?
「何か裏が」
「偽善的じゃ」って、
どういう「裏」や偽の「何か」があると言うの?

ボランティアしている人が、いい家に住んでいて
「あんなところに住んで」と人が言うのを聞いたけど
慈善行為をしたら、自分のためにお金を使っちゃダメなの?

Vに聞いたらイギリスでは「チャリティ」の概念は定着しているので、そのようなことで
「偽善的」などと言われることはないそう。

「チャリティ」はキリスト教的な背景があるかもしれないが、(ネットでちょっと検索したらイスラム教だとか・・・)仏教にも「布施」というものがあって、考え方は似ていると思う。でもたぶん経済や国の段階として「困っている人のために何かをする」というのが定着する段階では日本はなくて、奇異な目や疑いの目で見られるようだ。

私もボランティアで参加した各NGOに対し、活動の論拠となる支出関連情報を必ず要求したり人に聞いたり調べるし、そういう部分は気になってチェックの目で見たりしている。

ボランティアとしてでなく、仕事として関わったことのあるNGOの中で、
なんとパンフレットなどでは例のアフリカの貧しい人の写真を掲げ
彼らを助けるという名目なのに、
トップ1人の接待交際費が、年間常識的な金額をはるかに超えていたところがあった。

さらに驚くのは、その団体に対する世間からの批判というのはこれまで聞いたことがなく、おそらくずっとあのままではないだろうか。

批判するなら根拠が必要なのだけど、なんとなく批判している人はちゃんと調査をしているわけではないから、こういう団体のほうはむしろ批判しないし知りもしないのだろうか。

チャリティって言うとお金を出すだけのようなことも多いけど、私が協力しているNGOは、インターネットのサイトでクリックするだけの署名とか、3秒0円でできる。成果も明確に示される。

それは会社がモノを売るしくみをシステムとして構築するように、そのNGOが国を超えて、みんなで簡単に人助けをできるシステムを構築したということなのだと思う。

それが世間にちゃんと伝わってないのは、私のような人間の怠慢だとある人に言われた。今作っているNGOの広告でそれを伝えられうかどうかは私の技術にかかっている?

身近な人の問題は手助けするけど、話したこともない見知らぬ国の見知らぬ人の問題までは手助けする余裕がない、優先順位が低いと言う人が多い。

確かにチャリティは何らかの時間やお金や気持ちの余裕があって初めてできること。自分の人生でせいいっぱいという人がこの世の中のほとんどであることは現実。

でも先進国ではそういう人ばかりじゃないでしょ?
身近な人の問題と、知らない人の問題の困窮度がぜんぜん違ったら、また考えも変わるんじゃないかな。

そういうことは知ろうとしなければ、誰も教えてくれない。
だって、普通の生活してて入ってくる情報は、
タレントのシモネタとか本能を刺激して、情報提供するプロバイダーとかに広告収入が入るものばかりで、
それ以外の誰もクリックしない情報は、自分で探さなければ目に入らないから・・・。
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by nanaoyoshino | 2010-05-22 01:11 | hundreds of days off

信念を売る

出版社に勤めていた友人が、書籍を売るのは思想をおしつけているので、具体的に存在するモノを売るほうが実際に役に立っていていい、と言って出版社からモノのメーカー(の通販広告の部署)に転職した。その頃私は思想のほうがモノより高級な気がしていた。

思想よりモノのほうが、具体的な役に立つ。でも必然性のないモノばかり売るのは、モノとセットに思想を売ってる(その思想がブランドと呼ばれていたりする)のだから同じようなものではないか。

モノを売る広告の内容なんて、そもそも「ない」も同然と考えるのが普通である。まあ、モノを売って稼ぎたいだけだと。ブランドが思想に近いって言ってもこじつけ程度に思われていても(事実そんなもんだし)驚かない。

広告屋稼業からすると内容はあらかじめ広告主から渡されるので、広告を出す場合、おおざっぱに言えば伝え方、方法を考えるだけ。でも広告はその方法が新しければ新しいほど売れる。だから私は広告屋稼業が好きなのだ。

結局思想もモノも、何がいいか、高級かなんてわからない。内容がいいかどうかはそれぞれの人の価値観によるのだし。だから思想のほうがモノより高級とも必ずしも言えないと今は思っている。

アートもかなりの部分は方法の新しさを追求する行為で、だから広告はアートだなんて言わないけど、何が正しいかより、何が新しいかどうかのほうがややわかりやすい。同じコトをやるなら新しいことが評価される業界のほうが自分に向いている。

そうは言ってもたいていの広告を見ても「くだらない」と思う。内容も、方法も、数の過剰さもうんざりするほどくだらないと思う。きっと自分の作る広告も客観的に見たら、おおいにそれ以下だと思うけど。

ボランティアでやっているNGOの広告作りは、他のボランティアより、いやむしろ今のところ仕事以上に手間がかかって、ちょっとバカバカしくなるほど。

NGOの広告は思想を伝えるほうだと思うので、日常で使うモノより、本を売るのに少し似てる。まあでも私にはモノの広告よりこっちの思想のほうが高級だと思える。

NGOの広告も、自分の思想じゃなくてただ他人の思想を語っているだけ。方法は自分の技術が足りないから拙い。ただ表現している内容にさしあたって納得が行くことは、私と言う個人にとっては健全だと思う。

何がよいかわかんないのは客観的に決定が不可能ということ。自分自身大事と思う2,3のことについては、たとえ思い込みであっても、意思として持っていたい。わかんなくても思い込むこと、それがたぶんいわゆる「信念」ってやつで私は信念は少しだけなら持ちたい。
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by nanaoyoshino | 2010-05-15 00:18 | hundreds of days off

貧乏の楽しみ

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ここ数日天気が暖かくなって、これで晴れると「今日はどこに行こ?」と迷ってしまう。

会社辞めてからほんとに森茉莉の貧乏贅沢のような貧乏だけど、広告を作る仕事も今のところわりと忙しくて、たいてい朝と夜遅い時間に仕事をし、午後は散歩したりカフェでのんびりしたり、泳いだりして過ごす。

交通費節約を兼ねて自転車が主な交通手段で、あまり遠くに行かないけど、近所で小さい楽しみをみつける。

家で朝から根詰めて仕事して、もう我慢の限界までフラストレーションがたまったときに、映画の日で安かったので、近所の古くてもうつぶれそうな映画館にふらっと映画を見に行った。

映画館の観客が私1人だったのは、怖いくらいだった。映画館で映画見ながらVと携帯で会話なんかできちゃったほど。でも映画から戻ったらすっかり気分がよくなって、また夜の仕事を順調にすすめられた。

最近の発見は、プラネタリウム。今のところにもう7年以上住んでるのに初めて先日知り行ってみた。プラネタリウムに歩いていける場所に住んだの初めてだよ!とVに言ったら、彼も初めてだそう。というかプラネタリウムそのものが初めてだそうだ。

ドームの中で明かりが消えて星がまたたくと、まるでほんとの夜空の下にいるみたい。また明日、別のプログラムを見に行こうかなと思う。

今は広告の仕事が趣味と言い切れないいっぽうで、かなり趣味に近くて楽しんでやっているのできづくとブログも書けてない。

家賃だけで食べて行くとすると、外食したら即赤字。ということは、厳密には家賃だけで食べて行けているとは言えない。まずはもっと大家業の発展のため活動すべきなのだけどけっこう忙しくってできてない。

家賃は食べるためで、その他フリーランスの仕事は旅行や外食のためと思うと、ますますやる気に満々になる。まあ熱中してほかのことができないのは、良し悪しかもしれない、少なくとも「真剣になりすぎない」自分のポリシーには反する(いつものことだけど)と反省。
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by nanaoyoshino | 2010-05-12 00:42 | hundreds of days off

ロマンチックってナンだっけ?

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前ブログに「貧乏贅沢な日」と何気なく書いて、森茉莉という人の「贅沢貧乏」という本を読みたくなった。以前少しだけ読んだことがあって、ものぐさで、ほとんど寝そべってすごす、でもきれいなものが好きで自称変人の馬鹿で、少女趣味、という、いろいろ何しろロマンチックな変わり者ぶりが、自分にちょっと似ているような気がした。

GWはお墓参りがおもな目的で新幹線で遠出した。フリーなのでGW中も仕事がテンパっていてものすごいハードスケジュール、一年で最も電車の予約が取りにくい日でトーゼン取れなかったけど強行した。

予想通り新幹線の席はなくてしばらく立っていたのだけど私は昔から立ちっぱなしが苦手。気分が悪くなるのだ。

電車をつなぐ通路に空いたスペースがあるのをみつけてVと座ることに。まあ、あんまりあることじゃないので10年位前Vとギリシャに行ったとき船のキャビンに空きがなく、通路で寝たことを思い出した。他に通路で寝てる人もいなくて、心細かったのだけどVは人が通る側に横になって壁側の私を守るようにして寝ていた。そんな状況で2人ともなぜかよく眠った。

新幹線では、窓側にスーツケースの上に座った女性がいたのだが、その隣にぎゅうぎゅうずめに2人並んで座った。下りてから「ギリシャの船のこと思い出した」って言ったら「僕も」って。「何だかロマンチックだったね」と言ったらVがうなづいたのに、自分で言っといて少しビックリ。

だって思いつきで言ったものの、通路に寝たり座ったりするのが大体ロマンチックなのか?そもそもロマンチックの意味って何だっけ?ケータイの辞書でひいたらロマンチックとは「現実離れして甘くて美しく空想的なこと」。

森茉莉は幸せとは現実にあるのじゃなく心の中にだけある、と書いていて、何だかそれがわかったようなわからないような気がしている。でも現実を離れて空想の中で幸せになれることをロマンチックと呼ぶのかな。

森茉莉は生活能力が乏しく貧乏だったようだけど、そして私自身生活能力があるのかないのかわからないけど、次回は私の生活ぶり貧乏ぶりについて書こうと思う。
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by nanaoyoshino | 2010-05-09 11:45 | hundreds of days off