<   2010年 01月 ( 9 )   > この月の画像一覧

眠らない国の朝ごはんのこと <中国の朝ごはん-2>

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街のローカルバスだろうが、大陸横断のような超長距離バスだろうが、中国のバスはいつでも人でいっぱいだ。中国ではかなりの田舎に行っても、驚くほど人が多い。。眠らない人びとのこと <中国の朝ごはん-1>参照

長距離バスといえば広い中国では必ず夜行で、風のような速さでたくさんの集落を(乱暴運転で)通り過ぎる。どんな田舎でも、「賓館」などと書いた食堂が一晩中開いていて、真夜中過ぎの時間でも、男がイスにすわってボンヤリしている。

桂林へ行った時は、やはり夜行で「丑三つ時」というふうな時間帯に、人が乗るカゴのようなのを2人の男が運んで行くのとすれ違った。真夜中なのに、カゴのまわりで誰かが笛を吹いていたような記憶がある。すこし前の時代を舞台にした中国映画で、花嫁が遠い嫁ぎ先へそんなふうに運ばれるシーンがあったような気がするけれど、実際にあれがなんだったのか、いまだにわからないままでいる。


初めて夜行バスに乗ったとき、真夜中まで食堂に座っている男たちは何を考えてるのだろうと思っていた。

ある時屋台でそばの朝ごはんを食べていて、(夜行バスに乗る前だった)隣にいた英語が話せる中国人にまわりの人びとが何を話しているか聞いたら、お金勘定のことばかりだった。案外、夜中まで食堂で時間をつぶしている男たちの頭の中も、その日のお金のことかもしれない。

夜行バスは必ず途中、食事休憩のため決まった食堂(日本で言うとドライブインということになる)に1時間くらい立ち寄る。

やはり桂林へ向かう道の両側に大きな竹が風に揺れていた。
日本の竹とまったく違って、しなる幹が下から密集した重いたくさんの葉を持ち上げダイナミックに、踊るように揺れるのでしばらくは竹だと気づかないくらいだった。

そういう地域だからか、バスが休憩のため止まった食堂の家も、壁も天井もすべて細い竹でできていた。
人家もほとんどない山の上だ。電気もなかったが、蝋燭の火で照らされた、異様な竹の家は真夜中でも客がいっぱいだった。

店の若い男たちが声を張り上げ、動き回り、まわりの客が注文した皿が次々に運ばれた。真っ暗闇の山中に現れた、活気に満ちた空間は、まるで一流デザイナーに設計された都会のバーのように洗練された空間だった。

見知らぬ中国人にすすめられて食べたインゲンと豚肉の炒め物のおいしさは、素材の新鮮さと、中華なべでさっといためたようなものを即食べたことにあるように思う。その後これとまったくおなじものを以前書いた記事のFの家でFが作ってくれ、作り方を聞いて自分でも作るようになった。アメリカの朝食

翌朝目的地にバスが到着すると、バスターミナルは必ず食べ物を売る人びとに取り囲まれている。生の野菜や果物のほかにも、肉まんや餃子のような点心類、茹でた芋や卵があちこちで湯気をたてる。

駅の出入り口付近にも小さな、入り口を開け放した食堂が何軒も並んでいて、朝食のそばをすする人たちで、これまたいっぱいだ。

ところが私は乗り物ではほとんど眠れないので、くたくたになっていて、夜行バスの後、朝食を食べる気力が残っていたことがない。
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by nanaoyoshino | 2010-01-22 15:20 | 世界の庭とごはん

月を疑う孤独

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新年にあたって、FLLLPAの意味などあらためて書いたりしていましたが、FLLLPAという頭文字最後のL=Laugh=笑い=ユーモアに戻ってFLLLPAのふりかえりはこれでおしまいにします。FLLLPAは、私じゃない

イギリス人の女の子に「タイプの男性は?」と聞かれてこっちも聞き返すと、ほぼ10人中9人が「ユーモアのセンスがある人」と言っていた。イギリスで言うSense of Humorは日本の「お笑い」のような、ただオカシイ、笑えるというものとは部分的に重なるものの、かなり違う。

たとえば、何かイヤなできごととか他人とか、真剣に思いつめると悩みそうなことってありますよね?

そういうとき、むやみに真剣になってしまいそうなジブンに距離を置いたり、視点をちょっとズラして「あ、こんなに真剣になっちゃって、あたしったら、バカと違う?」と思う、あの軽さというか。

人生や社会の現象すべてについて、固定された判断から距離を置く。「もしかして、これバカじゃん?」というゆるさ、もうひとつの見方を持つことといいうか。(*1)

以前私はそんならそれは、たんなる人生の技術かと思ってた。でもたとえば日ごろから「Sense of Humor」を持っていれば、前回書いた 月がふたつ といった、現実と見えているものが、もしかすると無数にありえる見え方のひとつでしかないと考えることができる。

となると「Sense of Humor」は最近、リッパな知性ではと思えてきた。

ひとつの原因や現在という時点や感じ方考え方にむやみと固執せず、
Yes/No Good/Badと論理的に決め付けるかわりに、あるがままに流れに身をまかせるような、(ジブンを失わないまま)ゆるさ、水のような生き方とも不思議と(同じではないが)似ている。(*2)

「1984年」のような社会で、みんなが疑わない「月はひとつ」に象徴されるような、自明の「事実」に反対するのはすでに犯罪だ。そこではたとえ毎日書き換えられていても、歴史は「事実」とみなされる。

「1984年」は異様な世界に思える。けれどふりかえってじゃあ私たちのいるこの世界で、みんなが事実だと思ってる歴史は、書き換えられたことがないのだろうか?「事実」と反対のことを主張することは、彼らの世界と比べそれほど簡単なのか。



*1イギリスではSense of Humorとひと口に言っても、いろんな種類や歴史まで語られることがありとてもフクザツ。たぶんこれはアイロニーとも言われる。

*2几帳面に真面目にしがみつくのも、あるがまま感謝するのも、一種の繊細さの裏表のように思えます。ナイーブであるがゆえに一定のイメージに固執するか、世界を何事にもとらわれず理解するかの違いのようにも思えます。そういえば、英語でnaiveは、子供っぽく異様なほど感じやすいといったネガティブなニュアンスで使われ、後者のような繊細さはsensitiveのほうが使われることが多い。

<写真について>
この写真を撮った時、天気雨が太陽の光に輝いてまるで光の矢が降って来ているようでした。その現象を、大勢の人がいる広場でほとんど誰も気にとめない中、ただ一人ひたむきに眺めていた男性がいました。知的障害者かと見えましたが、以前知的障害者で上に書いたような、naïve とsensitive両方の性質があって、まわりで起こっていることを(取捨選択するというより)すべて同等にしかも健常者以上に感じ取り理解しているように見えた友人がいたことを思い出した。
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by nanaoyoshino | 2010-01-16 01:46 | hundreds of days off

「月がふたつ」

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秋の平和広告のプロジェクトで、プロパガンダとは何か、考えるようになった。
Mの国、Mの気持ち

プロパガンダは、計画的に、ひそかに、一定の目的をもった人びとが、ほかの人びとを操り煽るメディア活動を言うらしい。

都合のよい事実だけを伝えたり、都合の悪いことはねじまげての情報操作が含まれる。

プロパガンダの毒消しを目的とした平和広告も、はたしてプロパガンダかどうか?

「ひそかに」じゃなく、「あからさまに」、
「操る」よりは「多角的に、自分で考えてもらえるように」
「都合の悪いことも伝え、誇張なく伝える」平和広告って可能なのかな?

ジョージ・オーエルの「1984年」という小説では、主人公の仕事は党のプロバガンダにあわせ歴史を書き変えること。

党の主張と違う考えを持った人は粛清される(拉致・投獄され、最後には射殺)ので、この世界では、プロパガンダと同じ思想を持った人しかいないし、書き変えられる前の歴史は誰にも記憶されず、書き変えられた、プロパガンダとしての新しい歴史だけが、「事実」として認識される。


村上春樹のベストセラー小説「1Q84」では、ある少女が語った体験を彼女の友人が書きとめた話を、主人公の男性がさらに書き変える。すると今度はその物語(もうひとつの月がある世界)が、彼の現実=事実になってしまう。

(解釈によっては)このふたつの小説では、言葉が、物語が、メディアが、一定の人びとの「現実」になる、という暗示にも思える。ようするに現実とみんなが思っているのは、もしかすると言葉や概念が作ったあるひとつの「現実」でしかない。

登場人物は、宗教、恋愛、暴力への意思などいろんなものをかかえ、それなしで生きることができない。

人間は、言葉や考え(概念、イデオロギー、宗教、思想、言葉)なしで生きることができない。(つづく)
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by nanaoyoshino | 2010-01-13 22:18 | hundreds of days off

さびしいジブン

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前回「ジブンはジブンのままでいい」と書いた私は
20代のころは、たぶん、ジブンはどうありたいみたいなこと、ばっかり考えてた。
きっと相手に合わせるとか、まわりを受け入れるとか、ぜんぜんできなかった。
今もたぶん苦手だ。

日本では人から「変わってる」といつも言われる。

以前、あなたみたいな人はアメリカではフツウ、と
アメリカに住んでいた日本人の友人に言われた。

たしかに、
「よく、変わってると言われる」と欧米人に話すと、
「どこが?」と不思議な顔をされた。

イギリスに住んだ後は、誰かに
「変わってる」と言われようが言われまいが、
べつに気にならなくなった。

それを言った相手に、とくに受け入れられてる感じはしない。
でも人間みんな違ってあたりまえ。
ジブンは個性があると解釈して、むしろ喜ぶ。

日本ほど「和」をたいせつにする国は、
(それが多くは大陸から離れている地理的条件から来ていると想定すれば)
あまり多くないんじゃないか。

「個」をたいせつにする社会は、さびしさがつきまとう。
ほら、田舎から都会に出てきた人が感じるあれ。

日本で「個」を主張すると、よくケシカラン、という扱いを受ける。
まるで、誰もがときには感じる「さびしさ」なんて、
初めからなかったみたいだ。
(つづく)
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by nanaoyoshino | 2010-01-11 21:32 | hundreds of days off

水はしなやか、でも。(前回のつづき)

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前回、流れに身をまかせるのは日本的、と書いた。

日本人はよく、ものごとを白黒はっきりさせるよりあいまいなまま、
まわりの状況に「合わせる」と言われる。

流れに身をまかせる、と「合わせる」は、同じに見えるかもしれない。

でも「流れに身をまかせる」ことは、ジブンをなくしてしまうことではない。
もちろん、ほんとうは納得していないまま、やりすごすのでもない。

以下すべて、私はまるっきり実行できていないのですが、
たとえば、まわりで起こっていることや相手にむやみに抗うかわりに、
感受性豊かに理解し、ありのまま受け入れるとか。

いやだなと思うことを言われてそのまま受け止めず、脇へいったん置いてみる。
原因をひとつのことだけに帰着させず、バランスよく物事の背景を解釈することも
「流れに身をまかせる」しなやかさと、つうじるように思う。

それは、人と同じ道を選ぶこととは違う。

水もしなやかにカタチをかえつつ水のままであるように
ジブンはジブンのままでいい。

(つづく)
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by nanaoyoshino | 2010-01-11 01:08 | hundreds of days off

水みたいな生き方

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あ~寒い!冷えます!
中国の朝ごはんのこと、書く書くと書いて、ぜんぜん書いてないで、今日もべつのことを書きそうです。

今日は久しぶりに泳ぎました~!市民プールで。

じつは泳ぐのがかなり好きです。
昔からほとんど定期的に泳いでいるので、人生の数パーセントは水の中で暮らしてきたような、ちょっとおおげさに言えばそんな感じがします。

なぜ泳ぐのが好きかと言うと、いったん慣れると泳ぎ続けててもあまり疲れないから。

重力が少ないから、水の中にいると、まるで空を飛んでるみたい。

ほら姿勢がね、スーパーマンとそっくりでしょ。
からだをおもいっきり伸ばせて、からだが軽くて、
疲れても疲れ方がなんか気持ちいい。

水って、中にいると軽いけど、実はスゴク重い。
水はさらさらと自由で、ジブンってモノがないようでいて、実はある。
なにかに出会うたびにカタチを変えるけど、水はやっぱり水。

水みたいな生き方がいいな。

あるがままに、流れに身をまかせること。

これってスゴク、日本的じゃないですか?
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by nanaoyoshino | 2010-01-08 00:57 | hundreds of days off

庭はやさしく、ごはんは快楽

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自然って、先進国の街の暮らしの中では、遠い。
そういう場所からいきなり数千メートル級の山や、
人家が何十キロもない場所に行って、街灯ひとつないまっくらやみや
一歩間違えると死という場所に行くと、
街の生活では感じない何かを、感じる。

それは未知というか、「死」の隣にある生というか、こわいような生だ。

でも庭は違う。庭は人間が好きな自然を再生したかたちとおもえる。自然を作り変えたものというか。

日本のお寺なら、山水画の再現のような庭だったり。

イギリスだったら、人間に益をもたらす花や果物や野菜を配置する。

だから、庭はやさしく、ここちよい。




ごはんって、食べるとき
「いただきます」と言う。

アジアでは西洋以上に、
人間も自然の一部だとはっきり意識されている、世界って、そういうもんだと。

だから、自分が食べるために命を失う運命にある
植物や動物など「自然」にたいし、「いただきます」と感謝をささげる。

植物や動物にとってもそうだけど、
人間にとっても、
食べなければ死ぬのだから、「食べること」は「死」の隣にある。

でも「ごはん」は、快楽。

ほんとうはそうだけじゃない、かもしれなくても。
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by nanaoyoshino | 2010-01-06 02:03 | 世界の庭とごはん

FLLLPAは、私じゃない

You should not worry so seriously! そんなに真剣に悩まないほうがいいんじゃない
That’s right, maybe I was too serious. そうだね、僕ちょっと真剣になりすぎたかな
Oh dear, I sound like more English than you. おや、私、あなたよりイギリス人みたい。
Yes you do!  なるほど君のほうが、イギリス人ぽいな!
○.・.。.・・・‥……━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「普段着の英語」ピックアップ

2年ほど前にブログを書き始めたときは、カテゴリーは「シンプル・ライフ」だけでした。そのときは、Vと暮らすようになって、人生がとてもシンプルに感じられてその不思議さを書きたかったのです。

Vと暮らす前は人生がフクザツに思えた。
親兄弟と小さなことで争ったり、恋人とすったもんだで別れたりくっついたり。

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ブログのタイトル「FLLLPA」は、Far Look(英語的にはほんらいLook Farですかね、意味は遠くを見てゆったりする、目先のことであわてたり、計算したりするのはやめるということ) Light(軽くなる) Laugh(笑う)Positive(前向きになる) Appreciate(感謝する)の頭文字です。

イギリス的であることの良さは、真剣にならないこと=真剣さを芯からあざ笑うセンスオブユーモア。

ある意味「典型的日本人」=私は、どうしても、目の前のことを見てはパニックになり、真剣におもいつめ悩む。

とてもじゃないが泰然として軽く笑ったり、前向きに感謝したりなんてその場ではムリ。真剣になること=香山リカ氏が書いた「しがみついちゃう」かも。


もうおわかりのとおり、だからこそ、正反対のブログ名をつけました(笑)。


<写真について>
街の片隅の花嫁衣裳のスタジオ。
夜遅くまで、うちあわせする若い女性と、マネージャーの靴。
女性にとっては、人生最大の決断?
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by nanaoyoshino | 2010-01-04 01:54 | SimpleLife/普段着の英語

小さい舟に揺られて

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(新年にあたり、「ブログ楽しみにしています」というメッセージを個人的に多くいただき、どうもありがとうございます。

しばらくはブログについてふりかえって、前回中国のことを書いた続きは、この次書くつもりです。

なおこの記事長すぎたので、後に以下、何回かに分けてみました。)



1年ほど前に会社をやめてしまった。
それで「hundreds of days off」 (オフの日がいっぱい)というふざけた名前の(笑)
カテゴリーを作った。

まあやめる、やめたと騒いでも、冷静になってみると世の中主婦の方や、代々自営業というように会社に属さない人はゴマンといるわけで、たいした決心でもないな。

ただ、Vには、経済的自立を、あたりまえに期待されるような気がする。

日本でも最近の若い男性は妻に職を持ってもらったほうが、経済的にラクだから仕事やめないでね、っていう人は多い。

特別なことではないけれど、
組織に属さない自分。

小さな小舟にのって、大波を揺られてるよう。
慣れないせいか、気が小さいせいか、
ついつい、真剣になりやすい。

でも、「オフ」なんだから、真剣になるのは
そろそろやめなければいけませんね。


<写真について> 私とVがいつも行く私たちの庭とも呼べる武蔵野の丘(イギリスの丘に似ているので、勝手に「イギリスの丘」とも呼んでいます)から撮った富士山。(「国際結婚夫婦のごはんと庭」
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by nanaoyoshino | 2010-01-02 13:55 | hundreds of days off