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案外小さいのかも?!

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自分がお国柄地域柄に「ひえ~」って驚くのはつまり、ふつうは意識しないけど、考え方価値観の枠は無意識に、特定のひとたちのあいだで共有されてるもので、それと違う考え方の枠と会うと驚くんだと思う。

たとえば日本の文化が千年単位の歴史の上ではどれだけ中国に影響されてるかってことは好むと好まざるを関わらず事実。漢字の「漢」ってのは中国を意味するのだしそもそも。で言いたいことは、これだけ字をとりいれてるってのは、その字の意味する内容というか、考え方の枠も無意識にとりいれてるんだから!

言葉を勉強すると、言葉の背景にある文化や歴史を知りたくなる。言葉はそういうものとひとつっていう気がする。ほんとに、英語はヨーロッパ言語の方言のひとつみたいだし、ローマやゲルマンやいろんな歴史が言葉に織り込まれて。でもイギリスならイギリスの独自性も当然混ざりこんでるし、アメリカに行った英語はさらにアメリカならではの移民、アフリカ系の人たち、ネイティブインディアンやらいろいろ影響してるのかな。

やっぱり距離が他の大陸と離れてるために、日本語だって、ヨーロッパほど混ざってないかもしれないけど、今も「漢字」(中国語由来)とそうではない「かな」が混ざってて、漢語の多くは、中国からとりいれられたとき概念そのものも輸入されたはず。

地球って大きいようだけど、つながってて案外小さいのかもしれない。旅すると移動距離に比例し人間が、言葉と習慣が、同時にすこしずつズレて変形していくように思えます。
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by nanaoyoshino | 2009-05-29 01:52 | hundreds of days off

腸の中のパーティー

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べつにマニアじゃないのでオペラを牛丼にたとえちゃうと、海外のある都ではオペラは「安い・早い・旨い」っていうか、迷わず払える価格で、当日でもチケットが買えて、質もよい、っていうことがある。

オペラなんて興味ないっていう人が多いと思う。ヨーロッパでもおんなじで、目の前のオペラ劇場のチケットどこで買うんでしょうって聞いてもだあれも知らない。でもオペラのなかの言葉は日本人にとっての歌舞伎みたいに、(誰が見たって)わかりやすいもんじゃないだろうし、ただ音楽は洗練されてるし、舞台はけっこうくるくる変わるし、と音楽好きな人ならとりあえず楽しめるものだと思う。

海外での楽しみはそれだけじゃなく、休憩時間にくつろぐほかの観客のようすとか、劇場のすばらしさ、とか、たくさん!ヨーロッパで見るオペラはカクテルドレスの人もいれば、ちょっとした通勤服程度の人も多い。

ブリュッセルのオペラ劇場での安い席は4階か5階建てくらいの高さの手すりから乗り出すように見るから、高所恐怖症の人にはおすすめできない。昔のヨーロッパ映画で出てくるような、華麗な彫刻や飾りのある天井や壁が間近に見える桟敷席は、狭く仕切られてて恋人といっしょなら暗くって狭くってたぶん楽しいだろうなってとこ。

短い滞在中近くの劇場で見れればなんでも、っていう程度でふらりと出かけたので期待もしてなかったけど場内はほぼ満員。まず若い女の人がものを食べてる家族ビデオみたいな映像から始まる。超普段着の女性は食べてはトイレで排泄、という、過食症の記録かっ?

映画がとうとつに終わると舞台に巨大な人形が現れる。最初は白い石膏の化け物みたいに見えてたのに、人形にカラーの映像があてられると人形は動いたり表情を持ったりして赤ん坊になり、それがいつのまにか過食症の女の顔に変わり、女の顔がどんどん歳をとって老女の顔になる。

向きを変えた巨大な人物はふたたびビデオの女の顔に戻り、乳房がぱっくり割れて男が出てきたり、尻の穴から人が自由自在に行き来したりもする。

最後のシーンには体のなかから胃や腸が現れるんだけど、腸の中でオペラ歌手たちがパーティーをする。ビジュアルがそんなふうにスペクタクルで目が離せないほどおもしろい。ストーリーのほうは最後までよくわからなかったけど、飽食をテーマにした古典を現代に置き換えて社会批判した内容かなって、推測。

美術の教科書とかなんかで、マグリットの絵とか見たことある人も多いと思う。私はマグリットとか、ボッシュとか、ポール・デルボー、ブリューゲルが、ベルギーあたりの画家だなんて知らなかったのに、このオペラ見てたらそういう画家をいつのまにか思い出してた。

ブリューゲルは自然主義の人と思われてるけど偉い人も庶民も動物も子供もおんなじような大きさと表情で描いて1枚のなかで世界がひとまわりするような絵が、女の体から男が出入りするオペラの循環する世界と通じる。ボッシュはシュールリアリズムの運動がおこる400年も前の人なのに、まさにこのオペラみたいな(写真はヒエロニムス・ボッシュ 快楽の園(地獄)の一部)とんでもないシュールな絵をすでに描いてたのだ。

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by nanaoyoshino | 2009-05-25 00:22 | hundreds of days off

誕生日の時間へ

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ある朝階段を下りてくと、泊まってた民宿はあんまり商売繁盛というようすもなかったのに、1階は満員で、乳母車なんかもおいてあったりして、足場もないほど。大人たちの間をぬうようにしてキッチンのおかみさんのところへたどりついた。おかみさんは「今日誕生日会なの」と言う。「誰の?」と言ったら、乳母車の中の赤ん坊らしい。

どことなく繊細な風情のあるおかみさんはいつも私にアームスフォルトでやってる劇や音楽のことを教えてくれた。その日は公園の劇場へと向かった。小さい町なのでどこでも歩いて行けた。池の向こうで子供たちとお母さんが「まさか」っていうくらい粗末な小屋の前で遊んで、劇を待ってた。

小屋の前列にある小さなベンチは5歳くらいの子供ばっかり。まっくらになって劇が始まる瞬間はやっぱりわくわくする。女の子がキャベツの中から生まれる。その子を好きになった農夫の少年が王さまになる。

たった一人の人形使いの女性が、黒子として隠れるわけでもなく、小さな舞台の後ろに座って全ぶの登場人物の糸を器用な指の動きで操り、声色を変える。子供たちはすっかり物語りにひきこまれて、はーってためいきついたり、おーって歓声を上げたりして目を輝かせてる。

ちょっとかぐや姫みたいなストーリーだけど、むかしキャベツちゃんって人形がアメリカで人気だったし、欧米ではキャベツって特別な意味があるのかもしれない。うーんそれにしても、オランダの子供はテレビゲームなんて与えられてないのかな?

人形劇の途中の休憩時間、そこにいた子供の1人の母親らしい人がどう見ても日本人に見えて話しかけてみたところが、日本人じゃなくって韓国系オランダ人なのだった。その日は彼女の息子の誕生日で、場内の観客全員が近所の友達とその親だそう。流暢な英語で「養子なの」って言う。オランダでは子供の誕生日を半日とか1日かけて、盛大に祝うのが習慣なのだって初めて知った。

「ジェーン・オースティンの読書会」って小説の登場人物プルーディのことを思い出した。プルーディは子供の頃自分の誕生日会をとくべつ楽しみにしてて、でもたぶんお金か時間がない母親は誕生日を開いてあげられない。

日本ではそんな誕生日会の習慣はない、知る限りイギリスでもないよ、って言ったら、「ラクでいいわね、まあでも誕生日会も楽しいわよ」って彼女は言った。

近くの彼女の家の入り口までいっしょに行く。彼女とだんなさんが、まず誕生日の息子に、それから友達の子供たち全員にプレゼントをした。その後彼女は、子供1人ひとりを自宅に送る。
「あなたのご両親はお元気ですか」
私はなんとなく尋ねた。
「私自分の両親のことは何にも知らないの」
彼女とだんなさんの子供が養子なのだと思ってた。でも違った、彼女自身が韓国人の両親からオランダに養子に出されたのだ。

彼女も、実の親じゃないオランダ人の両親にこんなふうに誕生日を祝ってもらったのかもしれない。

ヨーロッパではふつう子供をアジアの家庭みたいには、かわいがらない。アジアでは子供は血のつながりの上で自分の一部と考える。ヨーロッパでは自分とは別の個人としてクールに扱う。オランダの子供たちはこれほど大勢に祝福された誕生日の時間を、大人になったときどんなふうに思いだすのかな。
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by nanaoyoshino | 2009-05-22 01:48 | hundreds of days off

移民と蚤の市

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ブリュッセルのアンティーク街はお城の中がそのまま店に引っ越した感じ。アンティークの家具、美術品、食器、金物なんかが見飽きるほどつまった店が通りに軒を連ねてる。でも値段もそれなり。

蚤の市ってのが、ヨーロッパに多い広場を使っての青空市なんだけど、引っ越すさいの不用品を並べたみたいなフリーマーケット。だけど財テク目当てじゃなく、ゴミの山から宝を探すつもりであれば、自分にだけ価値があればよいというのならいい。私が買えたもののひとつはオランダ製、ひとつはイタリア製、ひとつはフランス製の飾りや小物入れ。

蚤の市で物を売るのがなぜかほとんどアラブ人たちだった。いったいどうやってヨーロッパ中の豪奢なものを集めて売ってるのか?(金持ちがやりたがらないような)不用品回収のような仕事を請け負って、そこから金めものを見つけて売ってるんだろうか。

隣国オランダでおとぎ話でしか見たことがないくらい手の込んだ豪邸に驚いていると、サイクリングロードを無視して走って、いつのまにか味気ないビルのさびついたままの手すりや、汚れたままのコンクリートや、何も植えてない敷地にいた。

建物は日本で見慣れた団地ふう。住民は黒人かアラブ系の肌の色の濃い人がほとんど。明らかに希望のない顔つきの出入りする人々や、生気のあまりない子供の表情に、ただもうそこを早く抜け出したく自転車のペダルを漕いだ。

そういえばベルギーでもほんの15分ほど地下鉄でブリュッセルから郊外へ出れば、アラブ人街だった。空いてる宿がそこしかなくて夜中にたどりついて、朝起きてみたら、その街はブリュッセルの観光地(たとえばグランプリュスっていう世界遺産の広場とか)では見かけない、アラブ系の人ばかりで、金ぴかの日用品や、女性のベールや食べ物などアラブ人用のものしか売ってなかった。

ベルギーのPCはいくつも試したけどすべて、アルファベットしか表示しなかった。日本語も、アラビア語も、中国語も入力はもちろんできない。日本のサイトのURLを入力するとゴミのような文字になった。いろんな国のインターネットカフェやユースホステルでPCを使ったけど、アルファベットしか表示ができない経験(しかも標準的にできない)は初めてだった。

ベルギーってEUがあって国際的な街だと聞いてた。でもあくまでもヨーロッパの中心でしかないということを忘れちゃいけないのだった。ほかと結びつくと安心するのが人間の本性かもしれないけど、結びついた瞬間、結びつかなかった集団を排除することも多い。そして自分はすでにほかの人たちのことを考えてるし、思いやりのある人間だと感じて、そのさらに外側の人たちのことまで思い出すことは少ない。
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by nanaoyoshino | 2009-05-14 23:25 | hundreds of days off

雨の音、風の音

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先日書いたジプシーの音楽などについて意見をやりとりする機会があり、返事を書こうとおもったら長くなったのでここに書くことにした。

外国に行くとまず、外国語のひびきが音楽のように感じられる。


民族音楽ってCDで聴くより、当地に行って初めて、からだになじんでくるもの。光や湿気や熱気と寒気、街や人のさざめきとひびきあって立体的に、音楽が香みたいに、からだのなかに満ちてくように感じる。

インドのお香のにおい、電気がない夜のはてしない喧騒、モロッコでの夕闇の中のコーランのひびき、ひれふし祈る人々、トルコの長距離バスの中で車掌が乗客一人ひとりにかけるコロンの香り、そんなたくさんの小さな記憶をからだのどこかが覚えてる。インドとアラブの音楽は、強烈なというか、あまりにも違うがゆえに、抵抗できないナゾめいた魅力だった。*

スコットランドに住んでたとき、誰かが練習するバグパイプが、風に乗って聞こえてくることがあった。

まあるい曲線をなだらかに描いて芝生なんか生えてる平坦な丘は(UKでも)イングランド的。スコットランドの丘はゴツゴツして高い岩山みたいにうねうねと続く。だから遠くの音も山にさえぎられ澄んだ空気の中で届くように、バグパイプの音はスコットランドのハイランド(高い丘)をかけめぐる風の音みたいだった。

シベリア鉄道で旅したときは、荒涼と果てしなく続くシベリアの野に、ラフマニノフの厳しくも壮大な音の生まれた土地を見たように思った。

ブラジル、ラテンアメリカ、アフリカの音楽、ジプシーの音楽は旅せずとも前から好きで、ラテンやアフリカの音楽はそもそもポピュラーで耳慣れていたから受け入れたのかも。ジプシー音楽はエミール・クストリッツァとかいう、映画監督による「ジプシーのとき」という映画以来好きです。映画は当地へ旅する疑似体験みたいなものだから。

日本の津軽三味線と和太鼓は世界的にも認められた日本の伝統音楽と聞きました。日本は地理的に孤立した島国だからか、先進国なのに伝統がいまでも外来勢力に駆逐されてなく、お祭りのさかんなことは、先進国一?というくらい。

民族音楽は当地では古い音楽でも、私たちの場所ではとても新しく感じることが多い。パリやミラノのファッションが毎年世界の民族衣装をアレンジしてとりいれずにいられないのも、同じ理由のように思える。その意味ではまさに旅をすることの魅力とも同じかもしれない。

*エリアス カネッティ、Elias Canetti「マラケシュの声―ある旅のあとの断想」は、まさにそんなマラケシュというアラブ世界独特の音と気配をつづった本で、ただ音による気配の描写だけで楽しめるエッセイ。ちょっと難しげな本でしたが読んでみたら難しくなかった。
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by nanaoyoshino | 2009-05-12 22:43 | hundreds of days off

まるで海があるように

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アメルスフォールトを出発すると、ゴッホやミレーの農村画みたいな田園風景を自転車で走る。途中で適当にホテルか民宿を見つけて泊まろうと思ってたのに、夏のみ営業ってとこが多いみたい。日も暮れてきて少し不安になってたら交差点に「ユースホステルはこっち」と小さな看板が目に飛び込んだ。こんな何にもないとこにユースホステル?と半信半疑だったけど、ほんとにあった。

フロントの若い男性によると、このあたりの施設は、夏以外ほとんど閉まってるらしい。
「ここを去る前に見るべきとこありますか」
うーんとちょっとの間悩んだあと、彼は「ネイチャー」だって。

あーサイクリング中そこらじゅうにあった林のこと?って私が聞いたら、「まあそうだね」と彼はいい加減に言う。で、その「ネイチャー」までの行き方を書いた地図をコピーしてくれた。

翌朝も快晴で、地図のコピーに彼が○をつけてくれたとこに行ったら、人の気配はなし。車が駐車場に2台とまってて、平坦なオランダだけどわずかな起伏に少し丘みたいになったところを上ってみたら、見渡す限り真っ白な砂の海が広がった。

私が上った林のそばに、松の木がところどころはえてる、まるで地平線の向こうに、ほんものの海があるように。くぼんだところには草が少し生えてるけど、それ以外は砂地。まさかユーラシア大陸のまん中に、ほんとの海があるはずない。手に取るとまさに海辺にあるような、サラサラの細かい砂だ。

犬を散歩してる人がちらほら、砂埃のせいか、しんきろうのように遠くに揺れてる。
それ以外誰もいない。

私は広いところに出ると駆け出したくなるから、砂地を駆けようとするけど、足が軽い砂に入って走りにくい。湿ってくぼんだとこは、草が生えてデコボコしてる。

「ここは昔海だったの」
犬を放し飼いにして、砂地にたたずんでたおじさんに話しかけてみる。今はリタイアしてるけど船乗りだったっていうおじさんは、世界中旅したはずなのに、他のオランダ人はたいてい話せる、英語もほとんどしゃべらない。ぴょんぴょん駆けまわる自分の犬と、砂地を遠くに見晴らしながら「mooi(モーイ)」(ステキだ)ってただ一こと言った。*

そして自分自身の驚きのなか、私はなぜ自分が旅をするかってことに気づいた。

*この場所Soest には駅があり、アメルスフォールトからも、30分以内かと思われます。
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by nanaoyoshino | 2009-05-08 23:22 | hundreds of days off

ほかにどうにもならないじゃありませんか?

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なぜ旅をするのか。そのことに改めて気付いたのはオランダである風景にであったとき。


世界遺産のツアー客から逃れることばかり書いたけど、ツアーそのものには何の問題があるわけじゃございません。

私だって英語能力はよく言って、ネイティブの5歳児レベル。他の外国語はいっさい話せません。コミニュケーション能力に不安はおおありだし、これでもし自由になる時間も限られたてたら、ツアーに参加するよりほかにどうにもならないじゃありませんか?



会社やめてまで一週間以上旅をしたかった酔狂な私なのに、一週間くらいたったらあまりの一人旅のさみしさに日本に帰国したくなった。航空チケットのウラとオモテの小さい字をスミからスミまで読んで期限変更できないか、という文言を探したけど、ダメそうだった。

そんなこんなしてるうち一週間以上たってやっと天気がよくなって、念願の自転車でアメルスフォールトを出発した。
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by nanaoyoshino | 2009-05-08 00:18 | hundreds of days off

ふとんの上でまどろむと

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子供の頃海水浴をした日の夜、ふとんの上でも足の裏に波が揺れてるように感じませんでした?

自転車を長いこと漕いだ日の夜は、まどろむと足の裏でまだペダルがくるくる回ってるみたい。

自転車って言うと以前は中国のイメージだったけど、最近の北京はどうなんだろ。中国人が自転車に乗っているのは経済的理由が大きいと思う。でもオランダの自転車は・・・。


オランダ人が自転車を愛してるかどうかなんて、知らない。


聞けばやっぱりたぶん、
「自動車と違ってお金がかからないからさ」とかなんとか、クールに答えるかも。

私がオランダを自転車で走ることにしたのは、自転車で長~い距離走っても、ラクだから。もちろんオランダといえばまっ平なところで。

自転車人口が多そうな中国でも、日本と同様、車も自転車も歩行者も、みーんな、おんなじ道路を走る!だから自転車にずっと乗ってると、排気ガスをめいっぱい吸い込むわ、乱暴な運転手に殺されそうになるわ、カイテキというよりキョーフ。

オランダの自転車は、アンゼン・カイテキ。

なぜなら、サイクリング専用道路(フィッツパッドと言う)が国中?にはりめぐらされてる!(ラシイ。国中まで行ったことないけどそう聞いた)

長距離移動もラク!

私の場合1日平均約30kmの走行距離のほとんど、木漏れ日が踊る中でペダルをふんでいた。森林の“フィッツパッド”や、ゴッホやミレーの絵さながらの巨大な並木の間、ひとつの町くらい大きいお城の敷地の中(東京で言うと皇居の中の感じ)とかを。

サイクリング用地図には自転車で走りやすいルートが書かれてる。時にはあえて小さな町の可愛らしい商店街へ迂回するルートになってたりとかもご愛嬌。*

オランダ人は背が高いので、自転車の輪がかなり大きい。帰国してから自分の自転車に乗ったら、子供用みたいに見えたなー。



*レンタル自転車屋は各駅にあって夜遅くまで営業してたりするし、サイクリング用の地図は町の観光案内で手に入る。ただ森の中のサイクリングは標識が少なく、ヨーロッパはいまだに趣味として乗馬をする人がいるので、乗馬道と“フィッツパッド”の区別がときどきわかりにくい。
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by nanaoyoshino | 2009-05-05 23:51 | hundreds of days off

無用の官能

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実はこのオランダベルギーの旅行中、私は毎晩とまで行かなくても相当な頻度で音楽や演劇など、観劇ざんまいをしてた。アメルスフォールトでも民宿のおかみさんに聞いて、民宿のある広場の裏ホフにあるバーレストランへ、音楽を聴きに行った。

もちろん音楽ならなんだっていいというワケじゃない。このときはバルカン祭り、と銘打ってのジプシーの音楽だった。本物のバルカンジプシーらしい、すこし暗い目をした人のバイオリンはとってもテンポが早い。

アメルスフォールトって観光客は極端に少ないように思う。城砦のあった場所は今では運河沿いの建物に変わっても、運河も町も橋がかかった門も、中世のまま時が止まってる。一日中広場には人が集まりグラスをかたむけ、平日でさえ流しの音楽家が音楽をしながらチップをもらい、毎時間人形が飛び出て時刻と音楽をかなでる古い時計に人びとが立ち止まる。休日のボートめぐりさえ、もう何度もそのボートにのっているけど天気がいいからって言う地元民が、私のためにガイドをしてくれる。

バルカン祭りだって、地元っぽい老若男女ばっかり。不思議だったのが、大人はカップルや数人のグループが多かったけど、20代の若い人たちはなぜか、1人できてるように見えた。小さなギリシャレストランでのできごとなので、みんなジプシー音楽にのって踊りがコミニュケーションとなって、2人ずつ絡みながら踊る。それが決まった相手じゃなくって、どんどん相手を変えてく。しかも休憩が何回かはいっても、その間、さっきまでからみあってた相手とでも、誰とも特定の人と話してない。見たところ男女ともみんな単独で1人で来て、ナンパするんでもなく、ひたすら踊ってる。

ときには若い女どうし微笑みあったり、手をつないだり、しなやかに、情熱的に、視線とカラダをからませあい、官能を惜しみなく表現しながら、誰も直接的に誘惑するわけでもない。そんな女たちを見てたら「暗殺の森」っていうベルナルド・ベルトリッチの映画で踊るドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリを思い出した。

そう、頽廃の意味は、衰えて不健全に(非実際的に)なることなのだ。ヨーロッパとは、繁栄が衰え何世紀かたった後の場所だ。彼女たちの官能はただ、そこにあって、無用に観衆にさらされてる。あれほどの頽廃は、映画だけの世界かと思ってた。
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by nanaoyoshino | 2009-05-04 23:05 | hundreds of days off

あんまりいとおしくて

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オランダとは何かって、ずっとばかばかしくも壮大に考え続けてる。だって、イタリアに魅了され続けた私には、アメルスフォールトや、自転車で訪れたユトレヒトがまるでイタリアみたいなフンイキだったのがわりと衝撃だった。オランダとイタリア・・・あんまし結びついてなかった。ただずっと前書いた、イギリスでハウスシェアしてたオランダ人の性格は、イタリアっぽかった。

あんまりものごとに真剣すぎないっていうか、ものごとを婉曲に見ておもしろがってるんだけど、イギリス人のセンスオブユーモアとも違う、もっと軽い感じ。イギリス人のセンスオブユーモアって、イギリスにどっぷりつかたらないとたぶん理解できない、フクザツなものなんだけど、もっとストレートなのがオランダでは?

イギリス製ユーモアは真剣になりすぎて、辛くなって耐えられなくなって笑っちゃった、みたいな、大人のシニカルさを感じるんだな。でもオランダの軽さは明るくて人生を楽しもうっていう、前向きさのように感じた。

夢の町アメルスフォールト、それはその町が、あんまり美しくて、しかもその美しさが意識されておらず、地元民がのびのびと暮らしてるから。ほら、美人なんだけど、「私は美人です」っていう人って、鼻につくというかしらけるというか。でもすごい美人なのにちっともそれを意識してなくのびのびとして、三枚目の部分もある人なんかにあった日には、存在そのものがいとおしい。たとえていえばそんな感じ。

次回も夢の町アメルスフォールトのこと、もう少し書きます。
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by nanaoyoshino | 2009-05-03 23:11 | hundreds of days off