さよなら

今日お父さんが他界したそうだ。そうだ、と書いたのはどうも信じられないから。なぜなら他界した、と医者が言った後もお父さんの身体はずっと暖かで、足だって動かしているように見えたから。でも脈をはかっても脈はないようだったし、息していることも確かめられなかった。足はベッドが動くから動いているように見えるだけだと看護婦に言われた。もしそうならあんなにも死んでいても生きているように見える人って今まで見たことがないような気がする。そしてもしほんとうに今お父さんが死んでしまったとしたら、あまりになめらかにお父さんは生死の境を超えてしまったからだろうか、誰も息が引いていったことには気づかなかった。私はこれまで苦しんで死んだ人ばかり見て来たので、死は生の終わりでしかないように感じて来た。でも今では生と死はつながっていてひとつとも言えるんだなと思う。

長いことVの家族は「理想の家族」だと信じて来たけど、震災があった頃から身の回りに変化が起こり、自分のブログはフェアリーテール、架空の話を描いていると感じるようになって昨日も書いたように書く気がなくなってた。

朝早くB(Vの上のお姉さん)から電話をもらってお医者さんがもう危ないって言ってるからすぐにも病院に来るように、とのことだった。でも今いるJ(Vの下のお姉さん)の家からお父さんの病院は遠く、電車とバスを乗り継いで2時間もかかる。Jの職場は比較的近く彼女の自動車でなら30分くらいで着くのでJと一緒に行けないのっって聞いたら、出張だと言う。出張ってお父さんが危篤なのに、と言ったらそんなこと知らない、と怒鳴ったのでその話はもうせずに、Bの夫婦のどちらかが駅までせめて迎えに来てくれたらとVに言ったけどそういう話はなさそうだった。

もう引退後のB夫婦はお父さんが入院するたび、毎日病院に来て私たちが行かなかった数日も電話して状況を報告してくれていた。ちょっと前にはBのだんなさんが、ベッドで動けないお父さんのひげをていねいに剃ってあげていた。それがあんまり介護士みたいに手慣れた感じで。お父さんがビールが飲みたいというたびにビールを買いにいって、ストローで飲ませてあげていた。

Bは自分が来れないときは来てお父さんの食事を介護するようにとBに指示したりする。病院で職員が食べさせてくれるのにいちいち自分が必ず来たり、仕事に忙しいJにそんなこと指示するのが不思議。お父さんの老人ホームは全介護つきなのだけどBは週2回は行って何かと世話をしてきたし、よくBは介護の苦労を日頃から口にする。

昼ころ着いたらお父さんは眠っているようで、肺炎だからもともと荒い呼吸も安定していた。半開きの目は右目が大きめに開いていてそこからのぞいている瞳が死んだ魚みたいに白く濁ってた。B夫婦が食堂でお昼を食べている間、お父さんに○○だよ、と自分の名を告げたら両方の目が同じようにいきいきと開いて、何を見ているのか瞳も本来の青みを帯びて輝いたのでVを呼んだ。
「ねえお父さん目を覚ましたみたい」
Vも自分の名をお父さんに伝えたので「お父さん、わかったみたい?」と聞いたら、話はできないけど僕だってわかってるよ、とうれしそうだった。

そのうちにお父さんの息がとぎれとぎれになってきた。Vは食堂にBを呼びに行き、「心配ない」とだけ言われて帰って来た。私は「ねえお父さん息してる?」とVに何度も言わないといけないほど息がかすかになってきたので近くを通った黒人の看護婦さんに伝え、看護婦さんがお医者を呼んで来た。学生かというほど若い医者に抗菌剤はすべて試したんですかと言うと、副作用があるから何でも試せる訳ではないと言う。

「あら、ついに?」病室に戻って来たBは、お父さんを見てもう亡くなったと勘違いしたらしい。私はさっきの看護婦がまた通ったので、息してますか、酸素マスクとかしたらどうでしょうと声をかけるとお医者が来て、酸素は鼻からもうずっと補給していますよとか、もうあとわずかでしょうから離れないでくださいとか言った。

ちょうどそのときJが出張からかけつけ、数分で私にはお父さんの息が確かめられなくなった。でもVはまだ大丈夫息してるよと言い続けた。私は最初はそうなの、と言ったけどどうしてわかるのと聞くと3回目くらいには僕も自信がないと言い出した。Vの家族にも聞いたけど、もう誰もお父さんが息をしているかどうか、関心があまりなさそうで、わからないと言った。そこでまた看護婦さんを呼んだら医者が来て「アイムソーリー」と言った。Vの顔が動揺でさっと紅潮した。


Bは病院を去るとき、彼は老人ホームでも病院でも、ぜんぜん文句を言わなかった、全部受け入れアクセプトしたからみんな彼が好きだったと言った。私もVにお父さんは立派に運命をアクセプトしているようで、誇らしいと昨日パブで言ったのでそれが伝わったのかなとも思ったけど、VとBは直接話す機会もあまりないので、たぶんB自身の感想だろう。アクセプトというなんとなく東洋的な感じのする語をこういう事例に使うのか、ずっと前から疑問に思っていたがやはり使うんだな。

でもこの家族はVも含め病院からどんな悲観的なことを言われようと疑問にも思わず受け入れ、私がいちいち看護婦や医者に確かめたがるのが変に思われそうなほどだった。昨日パブ行く前にJのパートナーが、炭坑労働者だった自分の父親のことを、一度炭坑に入ったらいつ次食べられるかわからずずっとお腹をすかせていたから、とにかく食事のときはお腹いっぱい食べることが何よりたいせつだったと言ってた。たいていの苦労を受け入れざるをなかったのが、この階級(労働者階級、といってもこの国のほとんどがこの階級)歴史なのかもしれない。

病院から戻ったらVのお姉さんは家にいるのはたまらないから、近くのイタリアレストランに行く、あなたたちもよかったらおいでと言った。隣の席では10人くらいがやってきて、長い足の若い女性が、真っ白い身体にぴったりのミニのノースリーブワンピースをこの寒いのに着て目立っていたが、彼女の誕生日らしかった。イタリア人シェフがケーキを運んで来た。私たちはお父さんの思い出を話して、お父さんの好きだったウィスキーを飲んで笑って、隣人の誕生日をいっしょに拍手して祝った。それから近くの誰もいない海岸にVと2人で行き、私は波が轟く真っ暗な海を前に、ほとんど誰にも気づかれずに泣いた。
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by nanaoyoshino | 2012-02-24 09:57 | hundreds of days off
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